ALNOTE

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「阪神淡路大震災から18年」に思うこと

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 阪神淡路大震災から18年が経った。もう18年か? まだ18年か? 私の場合は気がついたら18年経っていたというのが近い。当時とても衝撃を受けたものの、当事者ではなかったからだ。あの惨状をテレビを通してしか見ていない。復興の様子もほとんど知らない。節目節目で様子を知ることはあっても、関心が薄れていたということはあったと思う。社会人になる頃までは、阪神エリア出身の人に出会ったときに少し訊いてみたりしていたが、あるとき「つらい思い出になっている人もいるからあまり訊かない方がいい」と、非当事者の人から言われたこともあって、ほとんど話題にすることもなくなってしまっていた。

 今日は久し振りに、関連の報道や番組を色々と見てみた。
 現在の神戸市民のうち、震災を経験していない市民が4割に達するそうだ。ここ何年かでそのような話を聞いていたけれど、十数年で4割の住民が入れ替わるというのは、自然な動きと比べるとかなり多いと思う。仕方なく神戸を離れた人もいるだろうし、反対に新しく神戸へやってきた人達、新しく生まれた子ども達、というのもいるだろう。
 こんな話を聞き、すっかり街の様子が変わってしまったのかと思ったが、NHKのある番組で見た現在の神戸長田地区の商店街は、元からいた住人達が力を合わせて盛り立てている活気ある温かそうな街になっていた。「隣近所の人と助け合った経験から、地域の繋がりを大切にするようになった」と話している人がいたり、「電気やガスが止まって、そのとき炭が活躍したから、今もこうして炭焼きをやってるんだ」と話している人がいたり、震災を経験していない高校生達が商店街のイベントに出演して盛り上げていたり。皆、明るかった。
 当時少し寄付などをした以外に何もできたことはなかったけれど、順調に復興している様子がうれしかった。

 この長田地区の人達を見ていて、思い出したことがあった。昨年末に行った宮城のことだ。
 12月に仙台と松島を訪れた。各地で目立ったのは「がんばっぺ宮城」というポスターや幟。あんなに怖くつらく悲しい経験をしたというのに、こっちが元気を分けてもらうほど皆明るかった。松島は、比較的被害が少なかったそうだが、それでも津波の被害を多大に受けている。でも、松島の人達は言う。「ここはそこまで被害がなかったから」と。地震から二ヶ月も経たないうちに遊覧船を復活させ、また松島に来てもらおう、あの地震のことを知ってもらおうとしている。ところどころに、津波の高さを示す印が残されていたり、当時の写真が掲載されたりしていた。海岸線に立った建物の1階部分が妙に新しそうだった。「大変でしたね」と言うと、色々と当時のことを話してくれた。旅行の直前に三陸沖震源の大きな地震があったのだが、「東京の方は大丈夫でしたか?」と心配もしてくれた(何人も。松島以外の宮城県民からも)。え、だってこっちの方が全然近いじゃないですか!(笑)
 宮城を旅して一番よかったのは、そんな宮城の人達の「がんばっぺ」を見ることができたことだ。無理に頑張っているとしたら嫌だけど、彼らはとても自然に頑張っていた。頑張ってるだなんて思ってないのかもしれない。でも、私はそこに強さや逞しさや前向きさを感じた。いいところだなあと思った。好きになった。また来たいなと思った。これからも応援したいと思った。
 この旅行で本当に被害が深刻なところは見ていなくて、それでも松島より北の鉄道が復旧していなかったり、松島の小さな島(岩?)が崩れてしまっていたり、ところどころに震災の爪痕を感じた。地元の方が所有している(おそらく)貴重な当時の写真資料を見ることもできた。まだまだこれから取り戻すものがたくさんあるのだと解った。そして、そんな中でも、打ちひしがれることなく頑張っている人達がいることも解った。
 私はこの経験を忘れない。
 忘れなければ、関心を持っていれば、これからも支援することができる。「訊くな」という人もいるけど、勇気を持って経験を語ってくれた人達のために、当事者でない私達ができることもある。

 毎日実感することがなければ、忘れるというのは自然なことだ。
 だからこそ、敢えて忘れないようにしたい。ときどき思い出して、今度こそ継続的に支援したり、自分でも備えをできたらいいと思う。

 冒頭の写真は、松島の遊覧船での一枚。ちょっと暗いですが、(かっぱえびせんが欲しくて)力強く羽ばたくカモメ達と、雨上りの空に架かる虹。被災地の人達が日々希望を持って生きていけますように。