ALNOTE

自分のためのINPUT/OUTPUT。好きなものを書き連ねるブログ。

二年前の記憶

 東北地方太平洋沖地震から2年。あの頃の手帳を見返すと、驚くほど何も書いていない。刻々と変わっていく状況に、かなり浮き足立っていたのだけれど。何らかの形でアウトプットすることで、物事に整理をつけることが多い筈なのに、あの頃の自分は少なからず混乱していたんだろうなと思う。判らないことが多すぎて、インプットする方に懸命になっていたのもあるかもしれない。実際、情報は溢れていた。
 今日は、2年経ってしまったとはいえ、まだ思い出せることを書き記しておこうと思う。来年になったら、更に思い出せなくなることも増えているだろうから。
 ということで、この記事は、特に何か言いたいことがあるわけでもなく、今思い出せる「あのとき」のことをつらつらと書いていくものとなります。

 本震の2日前、確か12時少し前、前震と思われる地震があった。平日だったので会社におり、自席でPCに向かっているところだった。おそらく地震が多い地域の人は皆経験的に知っていると思うけれど、初期微動と思われる揺れが結構長かったので、震源地はそんなに近くないだろうなと思った。でも、それなりに揺れたので、震源が三陸沖というのには少し驚いた。

 本震のときも、同じように自席にいた。「あれ、また揺れてる?」と隣の席の同僚に訊いた。というのも、当時の勤務先のビルは、一般的にいう高層ビルではあったけれど、まだ建ってから何年も経っていなかったので、制振・免震に優れていたらしく(後日調べたところ実際にそうだった)、体感としては何だかフワフワとするような感じだったからである。「何か、この間と同じような感じじゃないですか?」というような話をしながらしばらく様子を見ていたけれど、収まるような気配はなく、むしろ次第に揺れ幅が大きくなっているような気がしてきた。ビルの性能のお蔭というか所為で、主要動の到達が判らなかったのだ。
 さすがに不安になってきた。今までにないケースだったからだ。普通は、少しくらい大きな地震でも、1、2分で収まる。それにピークは主要動が来たときだ。
 そもそもこれは地震なんだろうか。そう思って、初めて窓越しに隣接する高層ビルの様子を見た。ぞっとした。揺れてる。多分メートル単位で。いや、こっちだけが揺れている? 向こうも本当に揺れているんだろうか? 今いるこのビルだけが倒壊したりなんてしないだろうか? どうしても脳裡を過ぎるのは、その前の月にあったクライストチャーチの地震のことだった。倒壊したビルのことだった。
 ここまで来て、ようやく周りを見回すと、何故か同じフロアにいる人達の反応は鈍かった。気にしている人もいたが、仕事を進めている人もそれなりにいた。何百人と入るような大規模フロアで、関わりのないようなチーム(勿論会社もバラバラ)も寄せ集められていたとはいえ、こんなときくらい地震を気にしてくれよと思った。あまり顕著に揺れない建物の作りが仇となっていた。
 ほとんどそんな人はいなかったけれど、念のため支給されていたヘルメットを置いて、机の下にいつでも潜れる状況で外の様子を窺っていた。あとから知ったけれど、地震があまりない地域では、学校でそういう訓練しないらしいですね。大げさだなと思われていたかもしれない。

 体感的に、どれぐらいの大きさの地震だったのかは、よく判らなかった。でも、「地震によるものと思われる」揺れは少なくとも5分以上は続いた。ビル自体の揺れはずっと続いていた。その後も余震が続いたので、おそらくそれから1時間はほとんど揺れっぱなしだった。今思うと結構すごい。
 最初の揺れが続いているとき、停電とネットワーク断線は起こっていなかったので、急いで地震情報を検索した。また三陸沖だった。ほめられたことではないけれどリロードしまくった。最大震度7大津波警報が出てる。自分は何てことないけれど、実家は千葉なので心配だった。もう仕事どころではなかった。

 この頃、他の客先に行っていた同期などに訊くと、大抵の現場では、避難(非常階段で外へ脱出)→解散ということが行われていたらしい。だが、私のいた現場は、そうならなかった。何の指示もないまま1時間以上放置されていたのだ。驚くべきことに仕事を継続していた人もいた。すごいね。
 すぐに指示が出なかった原因は、内部的なものと外部的なもの、それぞれひとつずつ。内部的な事情は、私の会社のリーダー達が、その日総じて顧客との打ち合わせで別の現場へ出払ってしまっていたこと。連絡手段が全くなかったわけではなかったから、何らかの手段で指示を出さなかったのは、ちょっと物事を軽く考えすぎだったと思うけれど。結局自社からの指示は出なかったように記憶している。外部的な事情は、そのビルが比較的新しかったために、緊急時の正式な手順が用意できていなかったこと。皮肉なことに、その数日後が初の避難訓練だったという。なし崩し的に各社判断という雰囲気になった。

 携帯電話は1時間ほどかけてようやく1度繋がった。実家は海の傍というわけでもないのだが、父が仕事でよく沿岸部の道を通っているようなので、こんなときだからこそ津波の様子を見るとか言ってわざと通っているのではないかと心配になったのだ(半分的中していたが、連絡取れたときには高台にいた。好奇心旺盛すぎ)。この頃は、携帯電話の充電器を常備していなかったので、このあと充電がなくなってしまい困る羽目となった。まだスマートフォンじゃなかった分、電池は保った方だったのかもしれない。このときから、会社に充電器を置くようになった。
 公衆電話から一般の電話は繋がりやすかったようだけれど、近隣にあった公衆電話は全てまさかのテレフォンカード専用! いまどきそんなの持ち歩いてる人いるのか? という思いに反して、結構長い列ができていた。もしかしたら、どこかでテレカ(こう略すとますます死語感ありますね)を売っていたのかもしれない。ガイドラインには、公衆電話用に小銭を用意しておくこと、とあったのに、これでは意味がない。現在では改善されていることを望みます(勿論公衆電話を設置している施設側の)。

 指示系統が機能しなかったことで、各自が判断して行動するのが遅くなったのは、半分悪かったが、半分は結果的によかったりもした。明るいうちに動き出せなかったことで、ほとんどの人が強制帰宅困難者となってしまったのだが、政府は帰宅困難者による混乱を避けるために、強制はできないがなるべく問題ない限りその場に留まってほしいというメッセージを出していた。確かそれを言っていたのは、枝野官房長官だった。
 電車がダメならバス……と思えば大渋滞でまともに運行しておらず、タクシーを捕まえに行った人達も数時間後諦めて戻ってきた。近くの施設が帰宅難民受け入れ用に開放されたが、急なことで物資もなかったらしく、向かった人も会社に留まる方がマシだと帰ってきた。私に、自転車を購入して帰宅することを提案してくれた人もいたけれど(現実的な距離だったので)、どうやらそんな話をしていた頃にはとっくに売り切れていたらしい。
 当時の顧客は割ときちんとしている企業だったので、夕方18時頃には、無理には帰らず留まってほしいこと、外へ出る場合は必ず複数人で行動すること、水と非常食を配布することなどのアナウンスがあった。近隣のコンビニはほぼ空っぽ、本当に乾麺くらいしか残っていなかった。私も水と非常食を受け取った。非常食は、2、3日に分けて摂っても問題ないくらいのカロリーがあった。

 あの日は3月にしてはとても寒かった。大して外を歩くこともないので薄着で通勤しており、とても後悔した。はっきりと覚えてないけれど、陽が沈む前も変な空色だったような気がする。

 深夜になって、何といくつかの私鉄が動き出した。JRは早々に12日朝まで運行しないことを明言していた。批判する人もいたけれど、私は決断が早かったことは評価できると思う。JRの規模で次の日復旧できたっていうのは、実は結構すごいことだったんじゃないかな。いずれにしても、鉄道関連で働いている人達だって一刻も早く帰りたかっただろうに。
 最寄りの主要駅までは向かえないこともなかったので、そこまで歩いてゆき、深夜営業している店で時間をつぶすことにした。同じように徒歩でどこかへ向かっていく人達をたくさん見た。といっても、当時の勤務地は顧客都合で郊外だったので、都心の混雑具合に比べたら全くマシだったんだろうけれど。
 一度駅構内の様子を見に入った。帰るのを諦めた、主に遊びに来ていたらしき若者達が、地べたに座り込んで難民化していた。そんな中に、普段からそこで寝泊まりしているホームレスのおじさん達……彼らの小慣れ感が半端なかった。別の駅の話だろうけど、後日、ホームレスのおじさん達が、そんな「俄か」達に段ボールを分けて使い方まで指導していた、なんて話も聞いた。
 また、構内で、地元自治体が配るペットボトルの水をもらった。有り難く頂いておいた。こういう職員も帰らず働いてたんだな。
 帰宅困難者になるのが判ってるのなら、実はボランティアしててもよかったんだよな、と今となっては思う。当時そのような志願ができたのかどうかは知らないけれど。実際、都内ではそういう制度を作る作らないみたいな話、結構前に聞いたことがあるんだけど、どうなったのかな。

 時間をつぶしていたバーで、初めてTVで被災地の映像を見た。そのときの私は、まだ津波の惨さをほとんど知らなかった。中継していたのは、確か気仙沼の火事だった。真っ暗闇の中で煌々と燃え盛る炎。火は、人の文明の象徴だけれど、ときにこうやって人の手に負えなくなることもある。ただ茫然と見ているしかなかった。きっと報道していた人だって、ただただその映像を撮って流すしかなかったのだろう。
 オフィスと外にいるときは気がつかなかったが、余震と思われる震度2程度の地震が、ひっきりなしに来ていた。TVに表示される地震速報が、もうどの地震を指しているのか判らないくらいに。笑うところじゃないんだけど、何だかもう笑いだしてしまいそうな気持ちになった。どうするんだ、これ。本州は沈没するんだろうか。

 この頃になって、何となく心に浮かんだのは「生かされてる」という実感だった。そう、地球って、人間のために存在してるわけじゃないんだよな。地球からしたら、この大地震だってただの新陳代謝なのかもしれない。これがたまたま、地球規模で見ればすぐ傍の三陸沖で起きただけ。いつ東京で起きたっておかしくない。いつ自分の身に降りかかったっておかしくない。自分が今ここにいられるのは、たまたまそれに巻きこまれなかったから――。そんな気持ちが芽生えてきて、急に心細くなったのを覚えている。

 午前3時半頃に、動き出していた電車に乗って帰宅。遠回りだったし、各停だったし、ノロノロ運転だったし、途中で緊急地震速報も来たりしてはらはらしたけれど、家に帰れて本当によかった。明け方に帰宅。
 自宅も震度5弱ということだったので、覚悟して入ったけれど、意外なことに玄関先の鏡が倒れていただけで済んだ。しかも損傷なし。とりあえず眠かったので寝た。12日が平日だったら、どうなっていたんだろうと思った。

 あまり長く寝ずに目が覚めた。TVには陽が昇った被災地が映し出されていた。信じられない光景を見て、信じられない言葉を聞いた。人が住んでいた場所とは思えない惨状が広がっていた。確認できるだけでも300名程度の遺体があると……何度も繰り返していた。昨日の津波の映像も初めて見た。言葉を失った。
 海外での報道についても紹介されていた。海外メディアは、地震と津波の被害の大きさとともに、原発への懸念を報じていた。そのときはぴんと来なかった。日本では、被害についてだとか、安否確認だとか、そういう報道が主だったから。

 直後の週末は、意外と楽観的に過ごしていたと思う。私だけでなく周りも。電池が品薄らしいとかいって買いものに出かけたり、近所の飲み屋に行ったりしていた。
 次の週からが大変だったんだよね。福島第一原発の危機(でもまだこのときは何とかなるんだろうと思ってた)、突然の輪番停電。節電要請、品不足。それから相次ぐ余震。すごい一週間だったな。

 思い出しているうちに結構長くなってしまったので、このあとのことはまた別の機会に思い出してみようと思う。
 こういう当時の何てことない記憶って、きっと風化していってしまうんだろうな。そう思うと、実体験としてダラダラ文(略して駄文)を残しておくのも悪くないのかな。